みなまで言わない

みなまで言わない、が中々上手くならない。余計な言葉が多い。

「みなまで言うな」は多くの場合「それ以上、言葉で詰めてしまっては相手が可哀想だ」みたいなニュアンスで用いられることが多いけれど、ここで意味したいのは言葉数を抑える美徳のことだ。正しく伝わらないことの方が怖くなって、つい言葉が多くなってしまう。

仕事においては丁寧な説明が大切だと思う。けれど私的なコミュニケーションにおいては内容が正確に伝わることよりも、その発言の湛える雰囲気や佇まいの方がよっぽど大事な場面が多い。どんなに言葉を選んだとて、言葉数が多い時点でそこに帯びる一定の圧や硬さ、鈍くささが拭えなくなってしまう。

極端な例を挙げると、口数少なくボソボソっと話す寡黙な主人公はかっこいい、というやつだ。去年、周回遅れでハマったプリズン・ブレイクの主人公、マイケル・スコフィールドはその典型で、彼は思いついた脱獄プランについて周りから「看守の目を盗む作戦はあるのか?」「準備まで時間がなさすぎる…!」と口々に問い詰められても、じっと遠くを見つめて「明日、実行する。」とだけつぶやくタイプの人間だ。

もはやコミュニケーションとして不成立に見えるが、その一言にはっきりと自信が伺える。彼は冷静沈着・用意周到な人間なので、やろうと思えば各事象に言葉で丁寧に反論することもできるだろうけれど、自信表明としては断然この方が強いし、かっこいい。(下手するとただの中二病だけれど)

そもそも言葉にした時点で誤変換があるのだから、せめて表現できる範囲のことはあらゆる方面から言語化しておきたいと思う一方で、そこに振り切ってしまうと興ざめなのだから難しい。そして単に「言葉数の少ない人」を目指したところで、変に拗らせただけの人間が出来上がるのも目に見えている。本来は人として大人になった結果として、自然と抑えられるものなのだろう。

ただ普段のデザイン作業的な観点に立つと、余白が無いと伝わらず、佇まいが生まれないのは当然のことに思える。意味の似た装飾を排し、用いたい要素を絞り抜いた結果として、そこに重みが生まれる。分かり易すぎる図版やロゴよりも、少し間引かれたものにこそ心惹かれ、頭で補完しようと思考が参加することによって自然と心に残る。それは言葉に対しても同じなのかもしれない。

そもそも「みなまで言わない」の説明でこの長さになっている時点でお察しの通りなのだが… これからは少し我慢するくらいの気持ちで、言葉の余白を作れる大人になりたいなと思ったのでした。