作品の境界
CGのチュートリアルをこなしているうちに、何となくダイナミックで色鮮やかになった結果を「作品」と誇張する人もいれば、試行錯誤を純粋にログとして記録し続けたものが、ある種の美しさを帯びて「作品」にしか見えないようなものもある。その対極が入り交ざっているタイムラインを眺めていると、「作品の境界」とは何なのか、軽く混乱してくることがある。(「アート」「アートワーク」とかも然り)
NFTアートが流行るようになって、おそらくは趣味やスキルアップの一環として作られたはずのものたちが、急に大金を生み出すようになったりしている。多くの場合は既に「作品」として公開されていたものであって、急に「作品」と呼び替え始めたという話ではないけれど、「作品」というラベルを貼ることでもたらす経済的な意義が大きく変わったように思えて、その境界への疑念を深めるきっかけにはなった。
端的に言うと、あの人の「作品」だと主張するものはお金を生み、逆にそう主張されないものたちは一銭にもならないのか、、という疑問。そもそも純粋な探究心や好奇心でしていることにお金を一々紐付けようとする方が下衆いのだけど、作品としての完成度ではなく、そう主張するか否かで世界がまるで変わってしまうように思えて、何だかもどかしい。本当に小手先で作られた、作品ではないはずのものを「作品」とラベリングする人があまりに多いように見えてしまうので、愚直で純粋な人たちに「それ『作品』って呼んだら儲かるそうですよ」と、つい最低で下衆い耳打ちをしたくなってしまう。
以前から、その「後付け」の傾向が顕著だと思っていた分野の一つに、人体モチーフの3DCGアートがある。そのモチーフで本当に真面目に作っている人はいるし、偶然これを見かけてもどうか気を悪くしないでほしいのだけど、例として挙げてみる。
人体をモチーフにするとはどういうことか。人間には人体があるし、共感性があるので、例えば人体が足から溶けていくような映像を目にすれば、自分の感覚に置き換える想像力が自然とはたらいてしまうし、呼び起こされる感情もある。実際にそれを利用して、伝えたいことを表現した作品も数多くあると思けれど、人体モデルを溶かして偶然気持ち悪く見えた結果に「作品」とラベルをつける行為には何か明らかな違和感がある。ましてやそれっぽいタイトルをつけて、あたかも「思想のもとに作りました」という体をしているケースは最悪とすら思う。他にもこういう例はあるのだろうけど、特に人体については、モチーフの特性として作者本人に何も考えがなくとも一定の感情を想起させるという点で、そういった安易な「作品化」につい敏感になってしまう。
「state of the art」というフレーズが好きなのだけど、これはアートや作品につけられるものというよりは、何かしら信じられないレベルで最高の水準に達しているものを「アート」に例えて使う言葉だ。個人的に「作品」や「アート」という言葉のイメージは、かくあり続けてほしい。