SNSかニュースか

10月の後半から一ヶ月半ほど、全てのSNSを断ってみた。月並みだけれど、他人の成功とか、頑張りとかを見てるのがしんどくなってしまった。何かをするにつけ、これを投稿しようか、書く場合はどう書こうか、それぞれの切り取り方をした場合に誰にどう思われるのか、迷い考えるのに疲れてしまった。

SNSを適度には見ない、という器用な調整が自分はできないので、離れる時は完全にゼロにする必要がある。精神汚染のトレードオフで得られる業界や技術の情報は、自分の業務上の生命線なので多少の葛藤があるけれど、断つのはそれを差し置いても心の健全を優先すべきと思われる時だ。

その間、何度Twitterのログインページ「What's happening?」を開いたことか。Twitter禁断症状というよりは、もはや無意識に刷り込まれているようで、ほんの数秒の待ち時間が発生する(ことが予測される)たびに、指がバックグラウンドからSafariを引き出し(⌘tab→alt) アドレスバーにフォーカスを置き(⌘L) twi...を打って入力候補を見る前にEnterでアクセスしている。そして開かれたページを見てハッとする、Twitter止めてたんだった...と。「What's Happening?」こっちが聞きたい。でも病名あって然るべきなのでは、というくらいの自覚はある。

同様にinstagram, Facebookなんかも止めたのだけど、情報中毒故に、どうしても何か目で追うものを欲してしまう。メンタルへの影響が少なく、せめてもの有益さ兼ねたプレーンな情報となると、いつも自分はニュースに行き着く。YouTubeのANN, FNN, JNNのライブ放送や、GoogleやNHKのニュースアプリを開いてはグルグルと巡り続けてしまうが、朝夕晩のトピックなんて大体どこも同じだ。COP26での各国の思惑やら、新内閣のメンバーやら、双子パンダの生育過程や、高齢者によるアクセルの踏み間違えの発生頻度… みたいなことに異様に精通してくる一方で、周りの誰が何を作ったのか、知人・友人たちがどうなったのか、何がリリースされてどう改善されたのか、みたいなことには完全に浦島状態になってしまう。

昔は通勤電車のサラリーマンを見て、毎朝新聞を開き社会情勢にキャッチアップするのは社会人として当然の備えだと思っていたけれど、いざ備えてみるとこの状態に一旦何の意味があるのか良く分からなくなる。自分の業務での社会性の要求が低いせいもあるだろうけど、数えれば明らかに暗いニュースの割合の方が多いニュース群を摂取し続けて、本当にメンタルに対してプレーンなのかも怪しく思える。でもニュースすらも断つと、本当に社会と断絶してしまったかのようで、その孤独感や不安もまた苦しい。

そんなことを悶々と考え試していたが、結局少し人と会ったり、運動をしたり、仕事をしたりサイトを作ったりしているうちに大したことには思えなくなり、またSNSにも戻ってしまった。あれこれ悩むくせに結局自分の良く分からないバイオリズムに振り回されてるだけに思えてしまい、無力感を覚える。