自分を信じて頑張る
小中学校ではよく「自分を信じて頑張れ」的な言葉をかけられたし、目標としても掲げた記憶がある。でも稚拙で当たり前すぎるのか、年を重ねるとあまり聞かなくなるし、むしろ信じないのが責任ある大人、というイメージにどこかですり替わってしまったように思う。
社会に出ると、圧倒的に自分を信じないことの方が求められる。「朝起きる自分」は信じず寝る前には目覚ましをかける。「いつかやる自分」は信じずタスクリストやカレンダーで進捗を管理する。「今週中に終える自分」も信じずスケジュールにバッファを取る。
どこか自分自身を変えようとするときも、まずは自分の周囲の「人」「場所」「時間」のいずれかを変えろ、と言われる。そして「自分を変えるぞ!」という自らの意思に頼るのは、最たる悪手だとされる。端的に言うと、たとえ自らを変えたいという状況にあって尚、自分は信用するなというのが通説になっている。
やる気が出ないときも、自分の意思のせいにはしない。きっと睡眠不足のせいであり、運動不足のせい、あるいは部屋のCO2濃度のせいだと疑う。「自分の状態管理」は自分のせいとも言えるが、基本的には意思というよりも客観的に捉えられる事実、あるいは環境の側に原因を見出して改善を図っている。
ただ、そうやって「できない自分」の要因をどんどん外部化し対策していくと、いつしか自分が自分ではなく、何か上手く制御すべき対象のように思えてくる。意思を持って取り組んだり、心で踏ん張るときの力み方を忘れてしまう。そんな不安が徐々に大きくなり、20代は前のめりに取り組んできた自己制御・ライフハックの類に、最近は得も言われぬ危機感を覚えるようになってきた。
自らの意思を無視して「やりたくないこと」に対する行動の制御を繰り返すと、意思を持たない方がいっそ効率が良いことに気づき、あらゆることへのやる気を失ってしまう。本来は意思のサポートであったはずの、上辺だけの習慣やライフハックだけが残り、自分はその弱々しい波間を漂うだけの存在になる。もはやそこに自らの推進力はなく、生物的な性質を利用して機械的に振り回されているだけである。
そしていつしか「自分が何がしたいか」ではなく「自分をどうしたいか」をベースに思考し、施策を講じようとしていることに気づく。「なりたい自分」を設定して向き合うこと自体は悪くなさそうだけれど、その手前で何か抜け落ちている気がしてならない。たとえ不器用でも意志のある方向へ必死に藻掻いている方が、よっぽど健全に思えてならない。
こんな状態から抜け出すために、一体何ができるのか。まずは心の機微に目を向けることが起点になる気がする。自分がしたいことはもちろん、したくないことも気に留める。曖昧な状態も許容し、観察する。心のありように目を向け、柔軟に動けるようにする。そうやって心の揺れに対する結果を、自身にきちんとフィードバックしていけば、また意思を持とうとする気力も芽生えるのではないだろうか。
自分不信を全うすることで社会人として程々に立ち回れるようになった一方で、「自分を信じて頑張る」を軽視していたツケに、今改めて向き合わされているような気がしている。