日記媒体への信頼
かなり不定期だけれど、もう10年ほど日記をつけている。アプリを乗り換えつつも基本的にはデジタルな媒体に頼っていたのだが、最近ちょっとしたきっかけがあり、初めてアナログのA4ノートを使ってみることにした。まとまった文章を手書きするのは学生の時以来で、ノートに一文字ずつ手で書くことがこんなにも果てしない行為だったかと気が遠くなったりもしたが、それと同時に書くときの心構えにもある種の変化があることに気付いた。キーを打つのではなくペンを走らせる、という身体性由来の影響もありそうだが、より大きいのは媒体への信頼差から来るものだと感じた。端的に言うと「紙にこんな情報を残すなんてとんでもない!」という不安が過ってしまうのだ。
基本的に日記というのは読まれて恥ずかしいもので、少なくとも自分は人に読ませるために書いてはいない。でも出来事と思考がセットになった思い出としては機能してほしいので、数年後の自分 (もはや他人) が読み返して意味をなす程度には、文章としての体裁を保って書くことにしている。すると意図した所ではなくとも、他人にとってもある程度の情報として機能してしまうことになる。
紙媒体には脆いイメージもありながら、捨てない限りはモノとして残るので、クラウドやローカルに置かれたデジタルな日記と比べると、ふとした事故で人目に付く可能性が圧倒的に高い。最初こそ扱いに気をつけていても、あまり興味のなくなった頃に適当に他の書物と棚で一緒にしてしまったり、出先で書こうと思って持ち出した時に置き忘れるなど、うっかり他人に読まれる状況は無限に想像できる。そんな媒体に自分の最もパーソナルな情報を書き連ね、束ねておくというのは、実は結構勇気が要ることなのではないか。
一方でデジタル媒体は、アプリやサービスの終了と同時に消滅してしまうリスクはあっても、他人に偶然読まれるような状況は(自分の死後を含めても)まず考えにくい。なので高い信頼を持って自分を開示していくことができる。これは個人的に日記を書く行為の大きな目的でもある「思考を一旦自分の外に出し切り、客観視する」という部分に対しても大切な意味をもつ。信頼の置けない相手に対して、思考を出し切ることはできない。
別に誰に読ませるつもりでなくとも、文章としての体裁を保つ以上、ぼんやりと受け手を想定して書くことになるのは日記の面白い所だと思う。自分はその架空の受け手への信頼度が、使うツールや媒体によって変わってくる。(同じデジタルであっても、仕組みがローカル保存からクラウドに移行したときにすら、微妙にスタンスが揺れたのを覚えている。) そして紙が情報の記録媒体として堅牢で信用に足る裏返しとして、日記の受け手としては信頼し切ることができないのだ。
結局、日記としての意味がなくなってしまうので、デジタル媒体と同レベルの開示を紙ノートに対して努めてみるものの、やはり一定の緊張や強張りを伴う形になってしまっている。
以前、某タレントがニュースのコメントで「子供の頃、私は日記帳に名前をつけていて、何か日常で嫌なことがあると『帰ったら〇〇ちゃん(日記帳)に愚痴を聞いてもらおう』と思ってやり過ごしていた」的なことを話していた。擬人化までしたことはないが、一旦人に開示するかのような気持ちになるのにはとても共感する所があった。ちなみに書き終えた日記帳は誰にも見せずに、都度捨てていたらしい。これはひとつの信頼の高め方だと思った。
また、去年から聴いてるImage CastというPodcastで東さんが「地中深くにに埋められて、誰にも発見されないまま未来永劫存在し続けて欲しい」的なことを仰っていた。読まれたくはないが、なかったことになるのは惜しい、という矛盾するような気持ちにも確かに共感できる。(話題が深くは掘られなかったので、解釈として合っているかは怪しい)
ということで自分は今書いているA4ノート日記は一旦書き切り、これはすぐに捨てることにして、今後はまた安心して残せるデジタルに戻るのだろうと思う。余談だが、日記アプリはあまりにサクッと過去の日記を見返せてしまい「歳を重ねて最近やっと分かってきた」と意気揚々と書こうとした気付きを、1年前に3年前にも10年前にも同じテンションで発見していることを残酷に突きつけてくれる。大変助かっている。