プロシージャルの枠

作画系アニメーターの仕事を見ていると、まるで動かす前から「各フレームの正解の絵」が概ね見えているように思えて、これにはどうやっても敵わないなと思う。自分のように、まずは大枠の仕組みを作って動かしてみて、チマチマとパラメータを調整していてはまず到達できない次元の動き、心地良さだと感じる。

では逆にチマチマとパラメータ調整を繰り返すことで得られる動きの妙みたいなものもあるのだろうかと前向きに考えてみるが、あったとしても何となくヌメっとした質感で、あまり心地の良い類ではない気がする。プロシージャルな仕組みでの調整は平滑化の方向に進みやすく、イージングカーブをキツくする程度の調整はあれど、ダイナミックな構造変化には中々振りづらい。勿論、できるだけ構造自体も変化しうる構造作りを心がけるけど、必ずどこかで一定のフレームは生まれてしまう。

トライ&エラーのハードルを下げて、試行錯誤の自由を得られることがプロシージャルの良さであるはずが、よほど意思を持って踏み外さない限りは現状ベースの調整から抜け出せなくなってしまう。目の前の結果を、フラットに1枚の画像として見ればさっと試せたはずのアイデアが、その骨格や成り立ちを意識するせいで遠のいてしまうことは多い。これはむしろ不自由な状況と言える。

最近この思考の枠に囚われまいとやや過敏気味になっている。結局のところ、どんな仕組みで、どんな苦労を経て生まれたのか、一切考えることなく純粋に結果を見て躊躇なく壊すということに尽きると思うが、度を越すと仕事が一向に進まなくなる。

たとえプロシージャルであっても、もう少し「正解」が頭で思い描けるようになることで取りうるアプローチを変えられるだろうとは思う。さらにはプロシージャルであるからこそ、まるで思い浮かばなかった思考の外が生み出される可能性もあるわけで、そんな余地をぼんやりと孕んだような仕組みが組めるようになりたい。

(字余りになったツイート下書き複数個をまとめた)