文脈で食べてる

最近のAIアート事情を眺めていると「手描きだからすごい (CGはすごくない)」話と、「メイキングをどこまで見せるのか」話を連想する。制作物の評価がその制作背景や文脈 (コンテキスト) にどの程度影響を受けるのか、あるいは入れ込むべきかという昔からの疑問に繋がるところがある。

かつては、本来制作物はそれのみで純粋に評価されるべきだと信じていた。「こう作られたからすごい」みたいなことは言い訳がましく格好悪いと。でも一方で、好きな作品であるほど周辺知識を「掘る」習慣は当然のように身についていた。誰が何を思い、どんな手法を用いて作られたのか… メイキングや作者の過去作品など、周辺知識も抑えてこそ作品とは深く理解できるもので、それでこそ「きちんと鑑賞する」態度たりえるのだという認識も同時にあった。世間的にも「そんな事も知らずに作品を語るなんて」と一定水準の前提知識が求められる風潮はどのジャンルにもあると思う。結局これらは、全て文脈理解のための行為と言えるのではないか。

作品が「純粋に(結果のみで)」評価されるべきだと思う一方で、文脈摂取に奔走し評価へと反映している… という矛盾に自覚的になったのは、恥ずかしながらわりと最近のことだった。

--

数週間前、AIアートが絵のコンテストで優勝したという記事があり、受賞者に避難が集まっているのを見た。そこで面白かったのは「作者は数万枚の出力をして、数週間の選別をした上で、レタッチ作業も行った」という情報が付与されることで「なんだ、そうだったのか」と一定の評価を回復していることだった。極端に言えば「頑張ったかどうか」が (世間での納得を得る上では) 大事になってしまっている。これはむしろ文脈と成果物の主従が逆転しているようにすら感じられた。

mimicという (作家が自身の絵をアップすることで模倣絵を生成する) サービスが出たときにも避難が殺到していたが「開発者だって長年の努力で得たスキルで頑張って作ったのだから」という方向で理解を示そうという人が多かったのも印象的だった。「頑張ったかどうか」は短絡的だが侮れないらしい。

--

1クリックで生成できるAIアートと対峙すると、作品評価にあたって文脈をどう捉えているか、を露骨に問われる気持ちになる。表面的な出来栄えでは人間の努力の末に生まれたものと変わらないが、実際そこにはプロンプトの入力以上の制作背景はない。自らの評価のモノサシを正しく認識できていないと、今まで評価してきたはずのものができない、という自己矛盾を抱えてしまうことになる。結果として「すごいけど何か嫌だ」とか「まだ細部が未熟だから人間の方がすごい」のような認知的不協和の解消に走ってしまうのではないか。この感情的な折り合いの悪さが、AIアートへの拒絶反応を引き起こす一因にもなっているように思える。

例えば同じAIアートであっても、「独自のモデルを育てるために学習データを10年かけて手作業で作りました」みたいな経緯があれば、疑念なく感動されるのだろうと思う。従来のジェネラティブアートも、コード自体が理解できずともコーディングしているのが人だというのは分かるので、評価しやすい側面がある気がする。

もちろん広告全般や商業デザイン、大衆に向けたエンタメなど、初見で伝わることを前提とした制作物に対して、メイキングを見せびらかして正当化に使うのは違う。でも作品に対して、作家がその過程や苦労を自ら開示することを過度に避難する必要はないし、むしろ鑑賞者に対しては誠実な行為と言えると思う。

--

自分にしたって、思えばほぼ文脈で食べているようなものではないか… と思うことがある。プロとしての腕一本でやれていると思いたいところだが、もし純粋な映像の技量で上から並べて上から順に発注する仕組みがあったのなら、三日で廃業である。それでも仕事として繋がっているのは、(想像になるけれど) これまでの関係性や、仕事への向き合い方、趣味嗜好、スケジュール感覚など、その周辺部分を含めた評価を少なからず感じる。これは機械化とは逆にある価値観で、個人的にやりがいを覚える所でもあり、本当にありがたいことだと思っている。(こと人間性やコミュニケーションには大いに問題があるので、むしろ純粋な技量側で埋め合わせたい気持ちではいるけど、中々叶わない) これは一方で、映像のスキルと同等かそれ以上に、人として成長しないといつか本当に食いっぱぐれるだろうな、という緊張感にも繋がっている。

結局人間なので、人が大して頑張っていないことを素直に評価できないのも、背後に人の努力や営みを求めてしまうのも、自然なことだろうと思う。


--

※これはAIアートをきっかけに感じた自身のモヤりを回想・咀嚼したもので、AIアート自体の問題を俯瞰したわけではない。普通に多面的すぎて難しい問題だと感じる。

※文脈による評価を肯定する一方で、主に仕事の場で、評価が文脈や言葉の側に偏ってしまうことで引き起こされる悲劇もまたあると感じるが、また別の機会に分けたい。