いつもありがとうございます

「顔を覚えられてしまったが最後、もうその店には行かなくなってしまう」という旨の投稿が、凄まじい数の同意を集めているのを見るたびに少し胸が痛む。誰でもない自分、としての居場所にこそ価値があったのに、その限りではくなってしまうのだろう。身近な人にもそういう人は多いし、自分自身も多分に人見知りだし、その気持ちは分からなくはない。

一方で、(主に海外のショート系動画で) 最近のカフェ店員特有の、客に対して明らかに無機質・無関心な、鼻につく声での接客を誇張して皮肉っているような投稿が、凄まじい議論を呼んでいるのもよく目にする。全く血の通っていない店員の態度に「昔はこうではなかった」と嘆く人もいれば、「仕事で必要以上の愛想を求められるのもおかしい」という人も一定数いた。

個人的には、客側の「店員に一切覚えられたくない」というささやかな拒絶的態度の行き着く先が、店員側の「客を一切人として扱わない」という無機質な世界ではないかと思うのだ。

もし客側の求めることが完全な匿名性であるとすれば、たとえ店員にとっては常連として見知った「知人」であったとしても「他人」として振る舞うことが求められる。でも「他人のフリをする」という行為は、ある意味で必要以上に愛想よくするのと同等か、それ以上の負担を強いてしまう気がしてならない。そこで店員が自らの心を守ろうとするならば、もう客を人としては接さずに、機械としての態度に振り切ってしまうのは自然な防衛反応と言える。

個人的に心配なのは、冒頭のような投稿が賛同を集めているのを見た店員側が「(良かれと思って伝えていたが) 気にされる方も多いので注意しなければ。。」と更に萎縮してしまうことだ。ただでさえ「客」を過剰に気遣う今の日本で、そんなズケズケと踏み込んでくる店員はそもそも滅多にいない。やたらと馴れ馴れしくもしてこない。その上で「いつもありがとうございます」の「いつも」すらを外せというのは、本当に店員の機械化の最後の一押しを、自らの手で引き起こしている気がしてしまう。店員が客に日頃の謝意すら伝えることすらできない世の中の、なんと息苦しいことか。

特に都会では普段から相手の心を否定しておいて、いざ旅先や移住先では人々の暖かさを求めるような態度を見ると辟易してしまう。どうか一度我が身を省みてほしい。

自分も愛想は悪いし、会話には全然上手く乗れないし、決して店員にとって心地良い客だとは思わないが、それでも業務を超えて示して頂く好意については極力前向きな態度でありたい。 特に自分が日頃から世話になっている店であれば、店側にとって心地良い状態にほんの僅かでも寄せたって良いのではないか。店員が常日頃こちらの距離感を推し量ってくれるように、こちらから推し量る姿勢もあって然るべきではないか。