ハノイの交差点
この前初めてベトナムの首都、ハノイを訪れた。東南アジアの国を訪れること自体が初めてで、自分もご多分に漏れず、圧倒的なバイクの交通量と、その中を互いにガンガン縫い進んでいく光景に面食らってしまった。「初めての東南アジアで得たの人生の気付き」みたいなエッセーは20代前半までしか許されない気もするけれど、ブログの最新記事がやや不穏なままなので、記憶の冷めないうちに一本追加しておきたい。
最初は誰一人ルールを守る気がなく、全員が我が道最優先で動いていて、なんて皆配慮に乏しいのかと呆れてしまったが、よく観察すると実情は異なるようだった。数日間の滞在で、少なくとも一度も事故は見なかったし、危うい状況すら殆ど目にしなかった。日本であれば即撮られ炎上しそうな接触スレスレの中で、不思議と危うさを感じない。これはむしろ全員が全員を慮ることでしか実現し得ず、ルールを精緻に取り決めて取り締まるよりも、高度なリテラシーが社会全体に通底してこそ機能している様相に思えた。
まず誰も過度に急ごうとしておらず、急に走ったり止まったりもしていない。恐らく誰かしらの不測事態となってしまうからだ。全員いつ何か起きても良いような、絶妙なスピードでねっとりと動いている。その上で常に全体を見渡して、何がどちらに動こうとしているのかを各々が感じ取っている。進路の衝突時には譲り合いの判断を細やかに合致させて、全体が止まらないようにしている。改めて文章にすると、かなり高度なことをしているように感じるけれど、このふるまいに対して、今はLLMを想起せずにはいられない。
体感としても、最初は個々の情報 (各バイクや歩行者とその進行方向など) に気を取られすぎて、個別に対応を考えていると上手く流れに乗れなかった。けれど徐々に全体をぼんやり見るようにして、ゆっくりと身体を動かすと不思議と移動できるようになった。個別の判断とその重ね合わせではなく、全体像 (文字通り大量の(移動)ベクトルや個別状況) を入力としたぼんやりとした判断を連続的に下すような感覚。従来型プログラムからの移行であった。(もちろん単にゆっくり動いたことで、周りの状況判断に身を委ねた所も大いにある)
これによって、恐らく日本であればほぼ停止状態で1時間かかりそうな大渋滞でも、全体がぬるりと動き続けて、バイクも車も歩行者も皆が15分くらいで抜けることができていた。これは現地で、例えどんなに優秀な信号機システムや交通ルールを整えたとしても、きっと実現できることではない。
ただ、やはり事故は怖いし、慣れない判断に頭がずっとフル稼働しているので、道を抜けるとどっと疲れるのを実感した。現地の人々は恐らくかなり省エネでその「移動判断モデル」を稼働し続けられるのだろう。スマホ片手に、周辺視野でスルスルと抜けていくので恐れ入る。あと移動方向が被ったときの避け方などで相手の「当然」に反し混乱させてしまうことも多く、自分のモデルの学習不足を感じた。子供の頃から自然と身についた、意識にすら上らない暗黙の判断基準が膨大にあるのかもしれない。
帰国の道中、SNSに流れてきた新たな自転車違反行為一覧(113種)を眺めて溜息が漏れた。もちろんルールによる恩恵も日々実感するが、まるでこれは大量のif文でLLMに迫ろうとするかのような愚行にも映ってしまう。今やどれほど条件分岐を重ねても自動運転に近づかないことは分かっているし、一度でも東京の狭い車道を自転車で走ったことがあれば、いかに個別の状況を無視した個別風ルールが宙に浮いた存在になるかもまた分かるのではないか。
信号が青になった横断歩道を渡っている間、基本的には車に注意を向ける必要はない。ルールに従っている間は思考停止できるので楽だ。でも曖昧さが必要な所にまで逐一ルールを設け、状況判断や他を慮る機会を奪い続けた先に生じる歪みもあるのではないか。また税制などにも思うが、ルールを足して複雑にすることによる損失が、世間的に低く見られすぎているような気がしてならない。
ルールを増やしたい人の方がきっと多いし、減らすことの良さを説く方がずっと難しい。自分にはせいぜいスクリーン上の要素や動きを減らすくらいしかできないけれど、せめてシンプルに保つことの良さを言葉で説明できるようでありたいな、などと結局都合よく自分の願望に紐づけながらぼんやりと思った。